旅が好きだからといって、いつも旅ばかりしているわけにはいかない。多くの人は、人生の時間の大半を地元での地道な日常生活に費やしているはず。私もその一人だ。が、少し異なるのは、夕方近くにはほぼ毎日、その地域で昔から続く銭湯(一般公衆浴場)ののれんをくぐることだろうか。この習慣は地元でも旅先でも変わらない。昔ながらの銭湯の客は、地域の常連さんがほとんど。近場であれ旅先であれ、知らない人たちのコミュニティーへよそ者として、しかも裸でお邪魔することは、けっこうな非日常体験であり、ひとつの旅なのだ。
名古屋の「へいでんさん」
名古屋に来るたび、アレ? とどこか腑(ふ)に落ちないような感じがいつもうっすらと漂う。京阪神から距離的には決して遠くはないのに、言葉も食べ物も違うし、道路はやたらと広く、山も海も見えず……考えてみれば、そもそもなぜここにこんな大きな街があるんだっけ? 「都」からはじまった関西の住民としては、どこかふしぎを感じる都会である。

名古屋のまちなか、交通量の多い大きな交差点の角に平田温泉という銭湯がある。平田と書いて「へいでん」と読む。難読のせいか、SNSでは「へいでん温泉」とひらがな表記で発信され、関係者の間では「へいでんさん」と呼ばれている。
私はそれを聞くたびに、小学生のとき同級だった田中くんのことをふざけて「でんちゅう」と呼んでいたことを思い出す。
へいでんさんのロビースペースは、小さなギャラリーとしていつもユニークな展示が行われている。その横には私が発行する『旅先銭湯』シリーズの本も置いてくださっていることもあって、名古屋へ行くたびに訪れる。
この日はどんよりと浮かない天気の下、細かな秋雨に傘をさしたりたたんだりしながら、へいでんさんに着いた。
ぬれた靴を脱ぎ、ロビーのベンチに腰を下ろしてギャラリーを眺めるだけでホッと落ち着いたが、でもやはり銭湯は風呂に入ってこそ。へいでんさんの浴室には、アッと驚くような魅力が詰まっているのである。

浴室に実る熱帯フルーツ
裸になって浴室の戸を開ける。真ん中にドーンと主浴槽が鎮座し、奥は庭になって岩が積み上げられた、名古屋の伝統的な銭湯スタイルだ。
各種浴槽から人気のサウナ、地下水かけ流しの水風呂まで、徹底的に磨き上げられて一点の曇りもない清潔空間。「銭湯かくあるべし!」となぜか誇らしい気分になって誰ともなしにドヤ顔をしたくなる。
中でも目をひかれるのは、主浴槽の真ん中にある謎の黒い石臼状の物体だ。石臼の中央部から清澄な湯がふわりふわりと絶え間なく湧き上がり、真っ黒ですべすべした石臼の表面を洗い流しながら湯船へと音もなくヌメヌメと落ちてゆく。なぜこの形状なのかは全然わからない。わからないけど伝い流れる湯にベールのように包まれた黒い石臼の肌がなんとも美しく、つい何度もなでてみたくなる。
【動画】黒い石臼のような湯吐き口から、奥壁に視線を転じると……
しかしそれ以上に気になるのは、奥庭の部分だろう。ここは岩が積み上げられたサンルーム状になっているのだが、岩の隙間という隙間にところ狭しと熱帯植物が配置され、浴室の熱気によってバナナの葉が大きく茂り、パイナップルやレモン、みかんなどの果樹が実を結ぶのである。


中には、小さな赤い実を食べると「酸っぱい食べ物が甘く感じるようになる」という、ふしぎな力を秘めた「ミラクルフルーツ」も毎年実る。この実を冷凍したものを私も実験的に食べさせてもらったが、確かにそのあと飲んだシークワーサー果汁を甘く感じた(やってみたい子どもはいつでもこれを体験させてもらえる)。
へいでんさんの常連客らはこの果物の成長を日々眺め、食べ頃になると収穫してみんなで分けて食べるのを楽しみにしているのだという。私はその仲間に入れてもらったことはないが、その情景を想像するだけで、なんと楽しい銭湯なのだろうと顔が勝手にほころんでしまう。


















