〈住人プロフィール〉
50歳(自営業・女性)
賃貸マンション・2LDK・丸ノ内線 本郷三丁目駅・文京区
入居2年・築年数54年・長女(16歳)、次女(10歳)との3人暮らし
高校2年のとき、母が運転をしながらぽつりと言った。
「お母さん、癌(がん)でもう長く生きられないかも。来年はこの桜見られないかもしれないんだ」
そんなこと言わないでと、突き放した。癌という病気を大げさに考えすぎだと苛つき、母の心に寄り添わなかった。
3人きょうだいの真んなかに育った。姉や弟に比べて愛されていないという実感が幼い頃からある。
「暗くて面倒くさい子」「あんたなんか産まなきゃよかった」と言われた。誕生日を忘れられたこともあり、アルバムも少ない。
「私自身、更年期の不調を体験して、あのときの母も更年期だったかもしれない、つい感情的になり言ってしまっただけで深い意味はなかったのでは思えます。が、当時はいつも、寂しいという満たされない気持ちを抱えていました。自分は愛されていないのでは、存在していていいのかとビクビクしながら。だから母の告白に素直になれなかったんですね」
30年後、母と同じ乳癌になり、今度はふたりの娘の反抗期を経験している。きつい抗癌剤治療や検査を受けながら、「お母さんも怖かったんだろうな」と、検査機の中で涙することもあった。
母は彼女が19歳のときに息を引き取る。余命を知り、自宅のリフォームを済ませ、自分の仏壇のスペースも新たに空けていた。
「勉強ができてえらいね」「センスがいいね」「優しいね」と褒められたこともたくさんある。褒められたい一心で勉強を頑張り、東京の大学にも行かせてもらった。
だが、卵巣嚢腫(のうしゅ)の影響もあり人より早い30代で更年期の不調がおとずれると、「なぜ母はあんなことを言ったんだろう」と、幼い頃の心の傷はふくらむいっぽうだった。
「自己肯定感が低いのです」
彼女から、何度かその言葉が出た。
取材は真夏日で、汗まみれの私と写真家の本城さんは、到着するなりよく冷えたおしぼりと冷茶でもてなされた。台所を撮影しようと立ち上がると、新品のスリッパを差し出す。聞くと、ふだんスリッパを使わないが、取材のために2足用意しておいたとのこと。「古い台所ですし、足が汚れたら申し訳ないので」。
そんな細やかな気遣いのできる人物と、「自己肯定感が低い」という言葉が、うまく結びつかず戸惑った。

経済的依存と精神的依存
外資系企業に勤める夫と29歳で結婚。彼女も大きな企業でバリバリと働いていた。「互いにワーカホリックでした」
長女が3歳のとき、このままだと育児が立ちゆかなくなると話し合った。中間管理職になっていた彼女は激務で、子どもと向き合えていないというジレンマが大きくなっていたのだ。「給料が低いほうが辞めよう」ということで彼女が退職。
そこから少しずつ関係性が変化した。
「夫の帰宅は毎日夜中か朝で、育児はワンオペでした。彼は、いつ解雇されるかわからずつねに競争を求められる組織で働くストレスか、ものすごくお酒を飲む。泥酔して暴れたときは、長女と0歳児だった次女を連れてホテルに避難したことも。酔うと、愛情が薄い、だれのおかげで(この生活ができると思っているのか)と、モラハラ的な言動が出ました」
平日の夜はいないので、話す時間が朝の束(つか)の間しかないことも寂しい。
「今日あったできごと、今日伝えたいささやかな子どもの成長は、週末にはもう話す内容ではなくなっているんですよね。数ミリの溝が徐々に深まり、気がつけば数センチになっていたという感じでしょうか」
夫は、みるみる昇進していった。それをまた恨めしく思う自分がいた。
「私の目標だった世界市場で好きなだけ仕事をして、社会的地位を築いて。……私は仕事がしたかったんですね」
頑張って高いローンを組み、眺めのいいマンションを購入、インテリアが好きな彼女にリフォームを任せ、憧れのミーレの入った広い台所で料理ができた。料理教室にも通った。
だが、気持ちは不安定なままだった。
「更年期の症状のイライラやゆらぎもあり、彼に当たってしまう自分も悪かった」と振り返る。
子どもの受験に対する考えの相違が、離婚の直接的な引き金になった。彼は一流校でなければ意味がない、娘との適性や、それ以外の学校の魅力を見ようとしない。
「経済的な依存って精神的な依存につながるんですね。離婚を考え始めたとき、はっとしました。私には生活力がない。何もできないんだということに」
長女の受験が終わり、フリーランスとして編集の仕事を本格的に再開した矢先、乳がんがわかる。
5年生存率60%。
「心の離れた夫とこのままつらい治療に立ち向かえない。これからは子どもたちのために私は生きよう」
2020年の師走に離婚届提出。ふたりで記念写真を取り合い、「ありがとう」と言い合って別れた。
「16年家族でいた人とこんなふうにあっけなく別れてしまうものなんだなと、昔の優しい表情に戻った彼を見ながら不思議な気持ちでいました」

小窓の習慣
現在の住まいにほど近い春日の古い賃貸マンションで母子3人の新しい生活が始まる。
抗がん剤治療に通うたび、思い出すのは母のことだった。
「母を喜ばせたいと買っていったどら焼きも最後は食べられなかった。そんなことを思い出して泣いたり、抜けていく髪を見ながら泣いたり。家で泣くのはいつも台所です。子どもにバレずにひとりになれるので」
何も作る気力がないときはカップラーメンを出し、子どもに申し訳ないと思うこともある。
幼い頃から子どもたちが大好きなレトルトのアンパンマンのカレーには何度も助けられた。
「おいしいし、案外添加物も少ないし、これを出すと子どもたちが喜ぶんです。シール付きも嬉(うれ)しいんですよね。今も常備していて、さすがにシールは喜ばない年齢になりましたが、“ちょっと甘いけど懐かしいよね”とぱくぱく食べます。パックがふたつに小分けされているのも、女の子にはちょうどいい量で便利なんですよね」
食材は生活クラブが中心だ。
「大切に育てられた野菜のほうがエネルギーがあるような気がします。生命力や魂を感じる。自分は疲れていても、作る相手がいるとがんばれるんですよね」
思春期に両親の離婚を経験した長女とはときにぶつかることもある。長女の文化祭に行ってもいいかと聞くと、ウィッグ姿の母を恥じ「他人のふりをして」と言われ、陰で泣き崩れた。3人で旅行をしたときは「癌でかわいそうと人に思われるのがいやだ」と、初めて子どもたちの心の内を聞けた。
「ああ、ごめんね、と恥ずかしくなりました」
昭和のモダン建築の面影が色濃い現在のヴィンテージマンションに越したのは2年前だ。「娘がふたりとも大喜びだったこともあり、長く憧れていた部屋に住むため少し無理をしました」
実は別居後、初めて部屋を借りるとき、不動産屋のカウンターで長女が、「母は私の受験のために去年働かなかったんです。本当は仕事バリバリできてもっと稼げる人なんです!」と訴えた。母子家庭の収入に不安を持たれないようにという一心からの行動だった。あれを聞いて大家さんを説得せねばと僕も背中を押されました、とのちに不動産業者から聞いた。今回もその業者に依頼した。
自分ひとりで、と肩に力を入れて新生活を始めたが、気づくと「街にも人にも助けられている。守られているなという感覚があります」。
台所には小窓がある。長女は、母とどんなにぶつかりあっても、朝、登校する時に必ず外から小窓を見上げて手を振るのだと、やわらかな笑顔で語る。
去年、父の車の助手席で、ふいに問いかけようとした。
「お母さんは、私のこと愛してた?」
しかし、どうしても涙が溢(あふ)れそうになり、言葉が出ない。だから質問を変えた。
「お母さんはどうしてあんなに私にばかり勉強をさせたんだろう」
「いちばん手のかからない子だったし、言うこと聞いて勉強をしたからでしょ」
本当に聞きたかったことはそれではないとわかっているのか、父はさらに続けた。
「それぞれ育て方は違ったけど、子ども3人ともそれぞれに愛情がちゃんとあったよ」
最近、生活の質を優先するため、薬によるホルモン治療をやめた。
母親は完璧でなくてもいい。間違いに気づいたら、ああごめんね、いやだったよねと謝れる。ヨレヨレでも、子どもが大好きだったアンパンマンのカレーを温めて出せる。それだけで十分じゃないかと思う。
もうすぐマンションの解体が始まる。
小窓から明るい日差しが入る台所を写真に残せてよかった。


















