朝日新聞デジタル

無意識の支配をゆるやかに手放す〈330〉

LIFE
2025.12.24

|

  • 大平一枝
    文筆家

    長野県生まれ。市井の生活者を独自の目線で描くルポルタージュコラム多数。著書に『ジャンク・スタイル』(平凡社)、『人生フルーツサンド』(大和書房)、『注文に時間がかかるカフェ』(ポプラ社)など。本連載は、書き下ろしを加えた『東京の台所』『男と女の台所』(平凡社)、『それでも食べて生きてゆく 東京の台所』(毎日新聞出版)の3冊が書籍化されている。

  • 本城直季
    写真家

    現実の都市風景をミニチュアのように撮る独特の撮影手法で知られる。写真集『small planet』(リトルモア)で第32回木村伊兵衛写真賞を受賞。ほかに『Treasure Box』(講談社)など。1978年東京生まれ。

〈住人プロフィール〉
34歳(会社員・女性)
賃貸戸建て・2SLDK・京王井の頭線 三鷹台駅・杉並区
入居3年・築年数11年・夫(会社経営・35歳)、長男(7歳)、次男(5歳)、三男(0歳)との5人暮らし

 小学4年の夏。転校生を巡る友達付き合いをきっかけに、いじめが始まった。上履きが焼却炉から出てきたり、自分が触ったものからバイキンゲームが始まったり。班分けでは、自分だけ浮いていた。
 「姉と弟が同じ小学校に通っているので、おおごとにしたらきょうだいにも被害がいくと思い、家族にも言えませんでした。だから家ではふつうに楽しく振る舞って。習い事が多く、そこへ行くと友達がいたので気が紛れましたね」
 一度だけ担任教師に告げると「◯ちゃんにも問題があるからじゃないか」と言われた。

 「きっと私にも悪いところがあったと思います。でも、ああそう言われたらもう無理だな、大人に言っても無駄なんだなと悟りました」
 子育てに熱心な母に気づかれぬよう、家庭ではよく食べ、よく笑い、よく勉強をした。逃げたら負けという気持ちから、できるかぎり休まなかった。勉強は、いじめっ子たちを見返したい一心からだった。
 それでも、「学校でハブられて、誰ともひとことも話さず帰る」日々に耐えきれなくなり、風呂場にそっと包丁を持ち込んだことが3度ある。

 「手首を切ったら血が吹き出て、ピリピリ痛くて。怖くて死ねないなって思いました」

 凪(なぎ)のように穏やかな性格の父は単身赴任で平日はおらず、母は玄米菜食の料理教室の仕事がある。
 きょうだいで姉だけ食物アレルギーがあり、幼い頃からアトピー症状が強く出ていた。そのため母は、乳製品や動物性タンパクを使わない食事療法を研究。場所を借りて人に教えるようになっていた。

 どうしても気持ちが滅入(めい)り、学校を休んでしまったある日、母が言った。
 「お母さん、料理教室行くけど来る?」
 こくんとうなずく。

 現場では、小さな料理助手として野菜を切ったり下ごしらえをしたり、料理に集中した。
 「学校とはまったく関係のない場所で、やるべきことがあって夢中になれたこと、おとなのなかにいることがよかった。今でも、とくだん料理に関してセンスがあるわけではないし、結婚して必要に迫られてやりだしただけですが、台所に立つのが苦でないのは、あのときのおかげだと思います」

 それから何度か同行した。
 6年のはじめ、たまたま近所の強い子と仲良くなり、いじめは収束した。
 中学は、父が「赴任先で家族みんなで暮らそう」と提案。彼女が真っ先に同意し、中部地方から関東に一家で越した。

 高校はアメリカへ留学、大学は東京で姉とふたり暮らし。バイトしていた飲食店の社員と交際の末、23歳で結婚した。
 彼は2歳上で、料理も家事も育児も等分に担う。とくにイタリアンが好きで、プロが使うフライパンを購入。パスタや煮込みやカレーが得意だ。子どもが3人いる今は、食器の洗い物はすべて担当している。
 彼女は料理が苦でないはずだったが、結婚当初は驚きと戸惑いに襲われた。
 「料理があまりおいしくない」と彼に言われてしまったからだ。

 それまで、動物性食品のカツオだしを使ったことがなかった。実家では、母の方針で、アレルギーの姉に合わせて自分と弟も学校給食を断り、玄米菜食の弁当を持参していた。
 だしは植物性の昆布から。肉、魚、乳製品、スナック菓子、チョコレートや白砂糖を使った菓子、添加物の多い加工食品も禁止だった。

 「母は“体は食べたものから作られる。中学卒業までは安心できるものを食べよう”という考えの人で、私もそういうものかと納得していたので」
 自身はアレルギーではないので、学校や友人には自分もアレルギーがあるということで通していた。
 思春期になると弟は反発して弁当をやめたが、彼女は続けた。
 「茶色いご飯とおかずは地味だし、ファストフードや外食にはやっぱり憧れました。でも姉がかわいそうで、付き合ってあげたかったという気持ちが強いです」

市販のマヨネーズに感動

 学生時代は、姉のアトピーが治ったこともありふたりでカップラーメンからファミレス、居酒屋など「食べたい欲が爆発して」食べまくった。
 するとてきめんに体重が増加した。肌の調子も悪くなり、健康を意識。なんとなく母の料理法に戻った。
 自炊は、慣れ親しんだ昆布だし、玄米、野菜中心の薄味が自然に多くなり、結婚後も踏襲していたら、夫が音を上げたというわけだ。

 「外食と実家のご飯があまりに違いすぎて、外でおいしいものと出会っても、どう再現していいのかがわからない。調味料からしてまるっきり違うし、だしの素も使ったことがなかったので。お肉の代わりの大豆からあげやテンペ(大豆の発酵食品)で満足していたので、ふつうのお料理がわからなすぎてABCクッキングに通いました」

 初めてかつおでだしをとったとき、驚いた。
 「味にゆたかなふくらみがあって、おいしいし、かつおだしでできる味のバリエーションの幅がすごい。きっと昆布だしに飽きていたんですね。それと個人的な感想ですが、自然食の卵を使わずに作ったマヨネーズはおいしくない。市販のマヨネーズのおいしさに感動しました」

 夫や子どもが喜ぶレシピがひとつひとつ増え、働きながら三児の母となった今は、ラクレットチーズを野菜にかけて加熱したり、小腹対策に冷凍肉まん・冷凍焼きおにぎりを常備したりしている。
 実家で使っていた上質な調味料や乳製品・パームオイル不使用のヘーゼルナッツチョコクリームなど、おいしかったものは取り入れつつ、“自分と家族が食べたいもの”“楽しく食べる時間”を大切にしている。

 あたりまえのようだが、じつはものさしのなかに“自分”を入れるまでに長い時間がかかった。
 「今、自分はどんな気分で、何を食べたくて、どう過ごしたいか。自分はノーというのが苦手で、決めることが下手だった。これも、あるとき夫に言われて気づいたのです」
 ──どういうことだろう。

自分で決める訓練

 結婚以来、母や姉がよく遊びに来て、食事や麻雀を皆で楽しむ。また、ほぼ毎年、三世帯で旅行もする。
 行き違いは、6年前の旅行で起きた。
 彼女と夫は、子どもがいるのでレンタカーでアクティブに行動したいと思ったが、姉は「プールに行きたい」と言う。ホテル、行き先、旅先での過ごしかた。いつも母と姉の意見に押し通されていた。三世帯はだいたい一緒に行動する。
 このときは、夫の強い希望もあり別行動になったが、あとから「なんでプール行かなかったの」と姉に言われた。
 幼い時からそれが日常だったので、妹の彼女はさほど気に留めていなかった。

 旅行から帰宅後、夫がつぶやいた。
 「俺、しんどくて、もうむりかもしれない」
 突然の告白に驚き、慌てた。
 「え、なに。どうかした? なにかあった?」
 なにがしんどいのか、見当がつかなかったのだ。

 ふたりはケンカをしたら必ず深夜まで話し、互いにわだかまりを残さないのが暗黙のならいになっている。
 その晩もとことん話しあおうと、彼の言葉に耳を傾けた。
 彼は、ぽつりぽつりと話しだした。
 妻が、母や姉にコントロールされているように見えること。どんなときも、妻、ひいては自分たち夫婦の意志は尊重されず、否定され、結果的に言いなりになってしまうこと。一緒に旅行をしたり食事したりすることが苦痛になってきていること。
 目に光るものがあった。
 7年前の出会いから、初めて見る彼の涙だった。

 「はっとしました。ひとつひとつ彼の言う過去のこと全部が、思い当たる。私は自分の意志がなく、人の価値観で善しあしを判断しているところがあった。無意識に、自分の家族より母や姉を優先していたんですね。彼の立場になれば、なんでも一方的に否定されたら心外なのは当然だと思った。私が好きで選んで結婚した人。その人の気持ちを尊重したいと心の底から実感しました」

 昔から母と姉は、よくぶつかっていた。そんなときはいつも彼女が間に入った。
 旅先でもおのずとそうなり、自分の家族より母や姉の機嫌を優先していたかもしれない。
 いっぽう「僕たちはこうしたい」という意見がはっきりある夫は、ひずみに耐えられなくなっていた。

 翌朝、彼女は母に電話で告げた。
 「私は旦那さんと子どもたちを優先したい。実家にいたときの価値観とは違う。私たち夫婦の意見を尊重してもらえないなら、今後は会わなくていいと思っている」
 環境を変え、母や姉から逃げるという選択をしたのだ。

 ノーと言えず、間に挟まれても我慢することがいいと思ってやってきた。逃げるのは負けである、と。
 「それは違うってわかったんです。嫌なら環境を変えることや、逃げるのもひとつの戦い方だなって」

 電話越しの母はショックを受けたらしく、泣き出した。
 しかし、切ったあとまもなくかけ直してきた。
 「あなたの気持ちに気付かず、ごめんね」

 母は、自分が悪いと思うとすぐに謝れる人だという。じつは数年前にも、突然こんなことを言われた。
 遊びに来て、夕食後皆で楽しくアイスを食べているときのことだ。
 「この間振り返って思ったんだけど、お母さんあなたたちに食事のこと、やりすぎだったなって思ったの、あのときは本当にごめんね」
 長女に合わせ、アレルギーのない次女や長男、もちろん自分も夫も家族全員で玄米菜食を実践した。それもけして楽なことではない。
 「もしかしたらお母さんがいちばんつらかったかもしれないと、そのとき思いました」と、彼女は振り返る。素直に子どもに謝ることのできる母の率直な性格を印象深く記憶している。

 姉と話したのはそれから、2、3カ月後だ。
 「夫に言われたの。◯ちゃんはいつもみんなに気を遣っていた、あんなに気を遣わなくていいのにって。たしかにあなたに言われたことを私はしていた。ごめんね。やっぱり仲良くしたい」

 それから6年経った現在も、“自分で決める訓練”を続けている。
 「私はこだわりが少ないぶん、あまりに考えてこなすぎた。だから暮らしのなかで、些細(ささい)なことでも私はどうしたいか、夫や子どもの希望を聞く前に考えるようにしています。献立作りって、なにかを決めるいい訓練になるんですよね。スーパーで選ぶのも楽しいし、冷蔵庫を見るのも楽しい。それまでは自分の“好き”も曖昧(あいまい)でした」

 4年前、勤め先も変えた。ノーが言えず、いろいろと引き受けた結果、残業が続いた。人間関係による社内政治が優先される組織で、間に挟まれ苦しいことも多かった。
 現在は、イエスかノーをはっきり言わないと昇格できず、人間関係ではなく成果で決まる外資系で働いている。
 毎日が選択の連続だが、「ストレスがなく自分の性に合っている」とほほ笑む。

 男児3人。「これからすごい量を食べるときがやってくるんですよね。どれくらい食べるのか、ちょっと楽しみにしているんです。今もぺろりときれいに食べてくれるときがいちばん嬉(うれ)しいので」

 料理中は脳が空っぽになり、集中できる。それが心地よい。
「いじめも、母や姉のことも、あれがあったから今があると、否定ではなく肯定的に受け止めています。こうして台所で自然に手が動くのも、母の料理教室に参加したからですしね」
 そう、あれも意味のある逃げだった。

 家賃を少し無理したという住まいの台所は、広くて贅沢(ぜいたく)なのだが、床にどんと30キロの米袋がそのまま置かれていたり、ポケモンシールだらけのコップが流し台からはみ出ていたり、なんだか適度に肩の力が抜けていて、楽しげな空気が伝わる。彼女と彼。使い手の人柄を感じる空間であった。 

あなたの台所の物語、きかせてください
~「東京の台所2」取材協力者募集~

人気連載「東京の台所2」では取材協力者を募集しています。特別じゃなくていい。あなたのいつもの台所にまつわるストーリーや食の思い出をお聞かせください。

ご応募はこちら

台所のフォトギャラリーへ(写真をクリックすると、くわしくご覧いただけます)

REACTION
COMMENT
評価の高い順
tai-chan
2025年12月24日 2:06 PM

黒が青やゴールドをガシッと受け止めるステキな色合いのお台所、見せていただき多謝です。お子さんが踏み台に乗って料理作りする姿を想像するだけで、ワクワクしました。最近、名の知れた俳優さんや歌手さんが1日1食を心がけている話を聞きましたが、3回で得る栄養や満足感を1回に絞るのは難しい。但し谷川俊太郎さんが1食だと知ったときにはちょっとやってみたくもなりましたが、家族で作って家族で美味しいとかひと味足りないかなって言いながら食べる楽しみには勝てません。クリスマスイブのプレゼントみたいな台所話、ありがとうございました。よいお年をお迎え下さい。

SHARE

FOR YOU
あなたにおすすめの記事

INTERESTS
&Travel

永遠の都ローマへ 宗教美術が咲き誇る街に少年使節の足跡を訪ねて(イタリア・ラツィオ州 後編)

RECOMMEND
おすすめの記事

0
利用規約

&MEMBER(登録無料)としてログインすると
コメントを書き込めるようになります。

tai-chan
2025年12月24日 2:06 PM

黒が青やゴールドをガシッと受け止めるステキな色合いのお台所、見せていただき多謝です。お子さんが踏み台に乗って料理作りする姿を想像するだけで、ワクワクしました。最近、名の知れた俳優さんや歌手さんが1日1食を心がけている話を聞きましたが、3回で得る栄養や満足感を1回に絞るのは難しい。但し谷川俊太郎さんが1食だと知ったときにはちょっとやってみたくもなりましたが、家族で作って家族で美味しいとかひと味足りないかなって言いながら食べる楽しみには勝てません。クリスマスイブのプレゼントみたいな台所話、ありがとうございました。よいお年をお迎え下さい。