〈住人プロフィール〉
35歳(パート・女性)
賃貸公団・3DK・大江戸線 光が丘駅・練馬区
入居5年・築年数35年・夫(職人・39歳)、長女(6歳)との3人暮らし
練馬区光が丘で生まれ育ち、毎週末泊まりに行っていた祖父母の家も近所で、団地だった。
「大きな公園がいくつもあって、毎日娘と公園を通って家に帰る。野鳥もたくさんいるんですよ。緑が多くて空が広い。光が丘って、東京の端っこで自然が身近で、団地が多くて、田舎でも都会でもない適度に中途半端。それがいいんですよね。ここで子育てするのが夢でした」
同棲(どうせい)は高田馬場、新婚時代は世田谷だが、娘が生まれると夫を説き伏せ、念願の団地に越してきた。
当時バンド活動をしていた彼は渋々の選択だった。飲み屋もスタジオも遠いからである。
「数年前に駅ビルがリニューアルして、紀ノ国屋やスターバックス、アパレルなど店が充実。どんどん周囲の開発が進み、彼はお気に入りのラーメン屋もできて。家賃も安いし、公園でのびのび娘と遊べるので、最近は“だめだ俺、光が丘、好きになっちゃいそう”なんて言ってます(笑)」
築35年の団地の台所は横に細長く、冷蔵庫を入れるとガス台下の一部が開閉できない。炊飯器と圧力鍋は置き場所がなく、ダイニングに設置。流しに立つと、部屋が見えない昔ながらの間取りである。
流し台の扉は、両面テープとベニヤ材を使い自分でリメイクをした。好きなダークブラウンにペイントして、取手も好きなデザインのものに付け替え。
背面には、オークションサイトやメルカリ、アンティークショップなどで入手した古いガラス食器、台所道具をディスプレーしている。北欧の照明やテーブルはヴィンテージだ。
料理や台所道具に興味を持ったのは、社会人になってからである。
「就職氷河期で、大学卒業後はディーン&デルーカでバイトをしてつなぎました」
国内外の高品質な食材や総菜を扱う食のセレクトショップチェーンで、自分でもたくさん買い、調味料や食材の知識が増えた。
バイト代を貯(た)めて、パリの蚤(のみ)の市で古い皿を買い求めたり、ポルトガルひとり旅で、素朴な総菜のおいしさに感銘を受けたりした。
結婚後は、カフェに正社員として就職。スタッフが全員女性で、多様な国籍の人が働いていた。
「世界の朝食を提供するカフェレストランで、パンやケーキ、食事はどれもおいしくて、みな和気あいあいとしている。今まで見たことのない世界でした」
ここで料理や製菓、製パンを学び、シェーカー教徒のライフスタイルなどインテリアにも興味が深まった。
しかし、妊娠を経て退職を決意する。流産の経験があり、今回は無理をしたくなかった。
いつかは、光が丘へと思っていたが、予定を早めたのは生まれた娘が1歳になってもハイハイもお座りもしなかったためだ。
「発達の遅れがあるとわかり、明るくのびのびしたところで子育てをしようと転居を決めました。練馬区は子育ての支援が進んでいるイメージだった。それも大きかったです」
当時の世田谷のマンションは1LDKの40平米だ。折しもコロナ禍で、越すなら散歩やピクニックができるような、広い公園が近くにほしかった。
「そういう環境はきっと娘にも私にとっても心地がいいし、家賃を変えずに広い部屋に住むなら、都内で叶(かな)うのは光が丘しか思い浮かびませんでした」
娘の発達に不安はあれど、それ以上に「一日の終わりに“今日もかわいい姿がたくさん見られたな”と思える毎日を送りたい」という気持ちが強かった。

苦悩と希望。手を差し伸べた人々
福祉課に電話をすると、担当者がすぐ訪問に来てくれた。
「若い女性で、保育士を経て職員になったという方でした。療育が必要な子どものことをよく理解されていて、コロナ禍のとてもお忙しい最中(さなか)なのに、親身にさまざまな提案をくださいました。こういう病院がいいかも、こちらの療育施設はどうかと調べては、一緒に付き添ってくださり。頼る人がいなかったので、どれだけ救われたかわかりません」
娘は最近やっと病名がついた。症例の少ない遺伝子疾患で、2018年に世界で初めて確認された新しい病気である。
「しゃべる前に手が出ちゃったり、絵本を好きすぎて破いてしまったり、食べ物でないものを口に入れたり、6歳の今も目が離せません。病名もわからず、先も見えないあの頃は不安だらけで、福祉課の助けがなかったら乗り越えられませんでした」
職員のみんなが彼女と同じようにできるわけではないとわかり、異動で担当から外れた今、より感謝が増している。
区の電話相談もよく利用している。
「来年から学校なので。我が家のことを理解してくれ、不安をひとつひとつ一緒に解決してくださる。行政に助けられています」
娘の性格にも助けられている。
明るく、怒られても長く引きずらない。母の手作りパンやクッキーが大好きで、匂いや気配で作っているとわかると、踏み台を持ってきて手伝おうとする。
「いかに私の目を盗んで生地をパクッと食べようか、虎視眈々(こしたんたん)としている。それがおかしくて、いつも私と娘で生地の奪い合いなんです」
ピッピッとオーブンが鳴ると、真っ先に駆け寄る。
自然が大好きで、療育施設からの帰りは毎日公園に寄り、美しい夕焼けを見ると「ママ、パシャ。ママ、パシャ」とシャッターチャンスを教える。
農園に実る柿、落ち葉、遠くに見えるスカイツリー。どれも目を輝かせて見入る。
「ここにいると季節の移ろいが身近に感じられる。自然から毎日ご褒美をもらっています」
娘が4歳の頃から週3回、15時までファストフード店でパートをしている。
冷蔵庫には、保存容器がズラリ。野菜を買ってきたらすぐ切って仕分け。袋を開封する時間を短縮している。冷凍食品も、取り出しやすいよう保存容器に。
「こうしておくと、自分がわかりやすい。料理のときは、冷蔵庫から容器をまとめてドカッと出し、よーしこのなかから作るぞ!と。袋を開けたり野菜を切ったりするところから始めると、料理が億劫(おっくう)になっちゃうので」
こうした日々のリズムができるのに、長い時間がかかった。
「今でも落ち込むことや、娘を叱りすぎて寝顔を見ながら謝ることがよくあります。でも、いつまでも暗い自分じゃ、この子にとって良くない。自分が娘だったら、お母さんが楽しくしている姿を見ていたいなと思うので」
生まれ育った街に、頼る人がいないと語った。毎週末祖父母宅で過ごした、とも。
その理由を尋ねると、彼女は心の奥から苦い記憶をすくいあげた。おそらく本当は取材で話すつもりがなかったに違いない、母との日々だ。

嫌いになりきれない
思春期の頃、両親が離婚をした。
まもなく母は再婚し、年の離れた妹が生まれた。それにともない転校し、新生活が始まる。
彼女は、女性としての母の変化を間近で見ながら、新しい家族の中でいづらくなっていった。
「大学の学費は出せないとのことだったので、高校時代からバイトを三つ四つ掛け持ちしていました。新婚で楽しそうな母。そのいっぽうで私にはきつい言葉もあり……。変わっていく家族の形を受け入れるのが難しかったですね」
現在は穏やかで、彼女への接し方も変わりつつある。
「母も子育てに必死だったのか、長女である私に対して本心ではないのにキツく当たっていたのだと思います。あの頃の母は今でも理解できません。別人でした」
祖父母は昔、肉屋と飲食店を経営していたこともあり、ふたりとも料理好きだ。祖父は、正月に彼女を連れて築地に買い出しに行くような本格派である。週末はいつも台所で、おいしいものが次々生まれてゆくさまに見とれていた。
「ローストビーフにチャーシュー。端っこをつまみ食いすると“お、いちばんおいしいところを知っているな”なんて逆に褒められて。甘やかされていました」
祖父は昨年、亡くなった。
夫からはしばしばこう言われる。
「お母さんの意見じゃなくて、きみはどうしたいの?」
母とは娘の障害への理解に違いがあり、苦しいこともある。
だが、母に対し、理屈ではわりきれないもの、抗(あらが)いがたいものがある。
「なんというか……見捨てられない。嫌いになりきれないんですよね──」
彼女の言葉が、涙で詰まった。
取材中、「もしも自分が娘だったら」という言葉が何度か出た。
一緒にパンを丸めたり、クッキー型に抜いたり、卵を混ぜたり、ギョーザを包んだり。自分が娘だったころ母にしてほしかったことを今、娘としている。そうすることで、無意識のうちに自分の心も繕っているのではないだろうか。
流し台の正面に直径30センチほどの鏡があった。
不安な顔をしていないか。叱りすぎていないか。台所に立つたび、ここで確認するために掛けているという。
娘について、心配を数えだしたらきりがない。「まあいっか。元気に生きてくれているんだから」と、切り替えるようにしている。
台所は自分の平穏を保ついちばん落ち着く場所で、娘とのおいしい味と匂いに満ちた場所だ。
それが写真からもありありと伝わり、今回メインカットを選ぶのにひどく迷った。どれもこれも、人物は映っていないのに楽しげで賑(にぎ)やかなのだ。家族3人から醸成されたあたたかなものが漂っているように見えた。
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